旧渋川市地区の指定文化財

最終更新日 2018年11月19日

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石造笠卒塔婆(いしづくりかさそとうば)

石造笠卒塔婆の写真

  • 国指定重要文化財
  • 昭和28年8月29日指定

笠卒塔婆は、南北朝時代の延文元年(1356)に造立されました。

塔身の高さ135センチメートル、幅30センチメートル、総高は220センチメートルを測りますが、笠は損失し五輪塔の空風輪と火輪で補っています。

銘文が四面にあり、上部に梵字(ぼんじ)、下部に年号や造立の趣旨を刻銘し、心阿弥(しんあみ)などの法名から時宗(じしゅう)の信仰がうかがえます。石原字手川の町田氏宅の庭にあります。

堀口家住宅店蔵・主屋・北蔵・南蔵・付属屋(ほりぐちけじゅうたくみせぐら・おもや・きたぐら・みなみぐら・ふぞくや)

堀口家は江戸時代から「マルホン」という金物屋を営み、この登録となった建物で昭和42年まで営業した旧家です。

店蔵は土蔵造黒漆喰磨き仕上げで、埼玉県川越市の店蔵に匹敵する完成度の高い建物です。堀口家は江戸時代末から明治期の店蔵、主屋と蔵、さらに地割りを現在に伝える貴重な建物群です。

石坂家住宅主屋・土蔵(いしざかけじゅうたくおもや・どぞう)

石坂家は、慶長18年(1613)以来この地に住む旧家です。主屋は明治13年建造の木造3階建瓦葺き入母屋の豪壮な建物です。

1階の座敷は壁が漆喰塗り磨き仕上げ、2階は数寄屋風の座敷と和室があります。3階はかつて、養蚕に使われたと言われています。土蔵も同時期に建設されました。渋川市の貴重な和風建築物です。

木彫狛犬(きぼりこまいぬ)

木彫狛犬の写真

  • 県指定重要文化財
  • 昭和27年11月11日指定

阿(あ)・吽(うん)の相をした一対の狛犬です。

木彫の寄木造(よせぎづくり)で、表面に布を張り漆塗りされています。彫りが深くよく巻かれた巻毛や、吽形の頭上に残る擬宝珠(ぎぼし)など、古い形式を残しつつも形式化された彫り方は室町時代の作風を示しています。

この狛犬は眞光寺境内にあった白山神社の拝殿に置かれていたものといわれ、現在は眞光寺本堂内に納められています。

眞光寺洪鐘(しんこうじこうしょう)

眞光寺の洪鐘の写真

  • 県指定重要文化財
  • 昭和27年11月11日指定

眞光寺境内の万日堂かたわらの鐘楼にあります。鐘高78.5センチメートル、口径60センチメートルを測ります。

銘文から、万治(まんじ)3年(1660)、眞光寺20世奝諶(ちょうじん)の代に、檀信徒や寺僧の喜捨(きしゃ)によって造られたことがわかります。

鋳物師(いもじ)は、中尾村(現高崎市)の金井五郎右衛門です。

小栗上野介日記及び家計簿(おぐりこうずけのすけにっきおよびかけいぼ)

小栗上野介日記及び家計簿の写真

  • 県指定重要文化財
  • 昭和31年6月20日指定

小栗上野介忠順(ただまさ)(文政10年から慶応4年(1827から1868))は幕末期の旗本で、勘定奉行などを歴任しました。戊辰戦争が始まると、主戦論を展開しましたが、退けられて罷免(ひめん)されました。慶応4年(1868)隠居先の上州権田村で官軍に捕らえられ、取り調べもなく烏川で斬首されました。

日記2冊は、慶応3年(1867)から処刑される4日前までのもので、大名や名士の往来の状況が記されています。家計簿は嘉永3年(1850)から文久3年(1863)の間の4冊があります。

渋川八幡宮本殿(しぶかわはちまんぐうほんでん)

渋川八幡宮本殿の写真

  • 県指定重要文化財
  • 昭和36年1月6日指定

本殿は間口3間、奥行2間の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)です。妻飾りは単純な豕杈首(いのこさす)で、蟇股(かえるまた)はなく間斗束(けんとづか)を用いています。手挟(たばさみ)には彫刻がありますが、簡素な意匠を古式な手法で表現しています。虹梁(こうりょう)は直線的で古い型をしています。全体に装飾が少なく古風な細部手法を使い、和様の様式を基調としています。桃山から江戸時代最初期の建築と考えられます。

なお、拝殿と幣殿(へいでん)は明治時代後期に造られています。

旧入澤家住宅(きゅういりさわけじゅうたく)

旧入澤家住宅の外観写真

  • 県指定重要文化財
  • 平成30年2月16日指定

当建物は、市内の入沢地区にあった入澤氏本家の住宅を昭和54年に渋川八幡宮境内へ移築復原したものです。入澤氏は北条時頼の末流で、天文13年(1544)に信州から渋川に移住したあと、吾妻郡大戸城主の大戸心楽斎に仕え、渋川地内と八幡宮に知行地を宛がわれました。

木造平屋建て、寄棟づくり平入りで、屋根は現在金属板葺きですが、当初は茅葺きで、棟を「クレグシ」(芝棟)としていました。平面形式は、土間(ダイドコ)に接する大きな広間(ザシキ)とその奥の「デイ」、「ナンド」の3室から成る「広間型」です。「デイ」と「ナンド」のさらに奥には、接客のための空間である「ヨリツキ」、「オクノマ」が増築されています。全体的に壁が多く閉鎖的で、当初部分には床の間や押入れがなく、天井も設けられていないといった、古い民家建築の特徴が随所に見られます。 その他にも、土間と「ザシキ」境の柱が、鉋(かんな)や平刃(ひらば)の釿(ちょうな)よりも古い、蛤刃(はまぐりば)の釿で仕上げられています。 また、「ナンド」の出入り口は「帳台構え(ちょうだいがまえ)」になっていますが、これは、寝室に干し草や稲藁を敷いて寝ていた時代に、藁が外にはみ出ないように敷居を一段高くしたものです。

当建物は17世紀初期に遡る県内でも屈指の古い民家建築であり、養蚕が盛んになる前の建物です。 また、増築部分は17世紀末から18世紀初期頃と推定され、復原も増築後の中古の姿でなされているため、民家の平面の発展過程もよく示しています。

金井の宝篋印塔(かないのほうきょういんとう)

金井の宝篋印塔の写真

  • 県指定史跡
  • 昭和26年4月24日指定

この塔は総高150センチメートルあり、基礎が二間になっている関東型式で、基礎と塔身の間に中台を設けた異型の宝篋印塔です。

銘文に康永2年(1343)源義秀の供養のために沙門(しゃもん)住円が造立したと刻銘されています。源義秀がどのような人物かは明らかではありませんが、建長3年(1251)に宮田の石造不動明王立像を造立した里見氏義の弟に義秀という人がいますので、里見氏の一族の可能性もあります。

なお、もとは下金井の薬師堂にあったのを寛永年間に現在地に移したと伝えられています。

杢ヶ橋関所跡(附 関係資料)(もくがばしせきしょあと(つけたり かんけいしりょう))

杢ケ橋関所跡の写真

  • 県指定史跡
  • 昭和26年6月19日指定

三国街道は日本海側と関東を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であり、杢ヶ橋と猿ヶ京の2つの関所が置かれました。三国街道が吾妻川を渡る南牧(なんもく)の地に、元和(げんな)年間に番所として設けられ、寛永8年(1631)に猿ヶ京関所の設置とともに杢ヶ橋関所に改められました。

初め安中藩が、後に高崎藩などが預かり、目付1人・与力2人が2か月交替で派遣され、地元からは定番(じょうばん)3人が選ばれ世襲で勤務にあたりました。関所の囲いの柵矢来(さくやらい)は東西28間、南北23間で、中に関屋と定番役宅3軒、門番小屋2軒が置かれていました。現在、旧定番役宅が1軒、茅葺き屋根の住宅として残っています。

上州では碓氷関所に次いで重要な関所であり、佐渡奉行・新潟奉行・越後の諸大名や旅人が多数ここを通行しました。

吉田芝渓の墓(よしだしけいのはか)

吉田芝渓の墓の写真

  • 県指定史跡
  • 昭和26年6月19日指定

芝渓は寛延3年(1750)に渋川村に生まれ、北牧(きたもく)村の山崎石燕(せきえん)に儒学(じゅがく)を学び、さらに昌平黌(しょうへいこう)の聴講生となったり、平沢旭山(きょくざん)に師事するなどしました。

後に弟の翠屏(すいへい)らと芝中の地5ヘクタールあまりを開拓、そのかたわら門弟を教育し渋川郷学(きょうがく)の祖と呼ばれました。「養蚕須知(ようさんしゅち)」「開荒須知(かいこうしゅち)」など著書も多く著しました。文化8年(1811)62歳で没しています。

墓地は御蔭(みかげ)にあり、祖父母・父母・妻らの戒名・没年が彫られた一石を伴う墓石が1カ所と、その西約100メートルに弟の翠屏とともにある墓石が1カ所あります。

虚空蔵塚古墳(こくぞうづかこふん)

虚空蔵塚古墳の写真

  • 県指定史跡
  • 昭和27年11月11日指定

7世紀末の横穴式石室をもつ径約14メートル、高さ約3メートルの古墳で、6世紀中頃に降下した榛名山の軽石層の上に築かれています。円墳とされていますが、方墳の可能性もあります。古くから開口し、出土遺物はありません。

石室には羨道はなく、玄門の外側は前庭部に直結します。玄室は長さ3.1メートル、玄室幅1.3から1.45メートル、玄室高1.9メートル、玄門幅0.95メートル、玄室高0.95メートルを測ります。玄室は側壁に角閃石(かくせんせき)安山岩の截石(きりいし)を使った截石切組積(きりくみづみ)ですが、奥壁は自然石の一枚石、天井石も自然石4石を用いています。床面には截石を敷き詰めています。

玄門部も截石で精巧につくられ、門柱と冠石の前面は内側を額縁状にくり込んでいます。冠石の玄室側中央にはくり込みがあり、玄室内の両側壁前端には方形の小孔が開くなど、閉塞構造に関連するかと思われるつくりも見られます。

前庭部の左右壁は截石を主体として垂直に近く積んでおり、同様の前庭は前橋市蛇穴山古墳だけで、築造年代も近いと考えられます。ただし、五輪塔の部材が含まれているので、後世に一部積み直しています。

堀口藍園の墓(ほりぐちらんえんのはか)

堀口藍園の墓の写真

  • 県指定史跡
  • 昭和27年11月11日指定

藍園は文政元年(1818)渋川村に生まれ、木暮足翁(そくおう)・高橋蘭斎(らんさい)・僧周休(しゅうきゅう)に儒学・漢詩を学びました。紺屋のかたわら塾を開き、40歳で江戸・京都へ遊歴し多くの漢学者・漢詩人や勤王の志士らと交わり、帰郷してからは塾の経営にも熱心に励みました。

維新に際しては上野総鎮撫使(こうずけそうちんぶし)の前橋藩主松平侯から総長・村童教授などに任ぜられ、明治10年には学制発布後閉じていた私塾を再開し、門弟の教育を継続しました。藍園は吉田芝渓から続く渋川の郷学を大成し、完成させた人と言えます。門弟からは代議士・県会議員・郡長・町村長など多くの地方指導者が出ました。明治24年に74歳で没しています。

金井製鉄遺跡(かないせいてついせき)

金井製鉄遺跡の写真

  • 県指定史跡
  • 昭和50年9月5日指定

この遺跡は、8世紀後半の製鉄炉と炭窯からなる製鉄遺跡で、金井浄水場の建設工事中に発見されました。

製鉄炉は長さ90センチメートル、幅55センチメートル、壁高40センチメートルで南東に開口し、楕円形の平面形をもつ竪型炉(たてがたろ)です。炉壁は礫を芯に入れて35センチメートルほどの厚さに粘土で固めてつくってありました。炉の前面には、斜面を掘削して整地した作業場があり、その奥壁部分には石垣状の石積みが残っていました。原料となる砂鉄の集積も見つかっています。

炭窯(すみがま)は5基発見され、すでに工事で削平された部分にも広がっていたようです。窯はすべて登り窯で、主軸を斜面に直交させ焚き口を東に向けていました。各窯とも複数回にわたって操業していたのは確実です。炭窯で焼いた木炭と、吾妻川などで採れる砂鉄を製鉄炉に入れて銑鉄(せんてつ)をつくったと考えられます。

中筋遺跡(なかすじいせき)

中筋遺跡の写真

  • 県指定史跡
  • 平成4年5月15日指定

この遺跡は、6世紀初頭の榛名山の噴火によって火山灰が降下し、その後の火砕流に襲われて埋没・焼亡した古墳時代集落遺跡です。火山灰に続いて火砕流で一瞬にして埋没したため、通常の遺跡では発見されることのない、当時の地表面がそのまま残っていて、多くの新知見を得ることができました。

また、竪穴住居や平地式建物の建築部材は、吹き飛ばされながらもかなりの部材が炭となって残り、各種建物の上屋構造を復元する資料となりました。竪穴住居の屋根組は垂木を地面に下ろし、垂木尻には土を土手状に乗せ、屋根の草葺きの表面には土をかぶせていたこともわかりました。

竪穴住居や平地式建物、畠跡、垣根、祭祀跡(さいしあと)などが、被災直後の状態を彷彿(ほうふつ)とさせる状態で発見され、当時の人々の暮らしを解明するための大きな手がかりを与えてくれました。子持地区の黒井峯遺跡とともに、古墳時代の集落に対するイメージを大きく塗り替ることになった遺跡です。

交通案内

周辺地図や行き方については「(Q&A)「中筋遺跡」の行き方を教えてください」のページをご参照ください

藍園墓地の大ケヤキ(らんえんぼちのおおけやき)

藍園墓地の大ケヤキの写真

  • 県指定天然記念物
  • 昭和27年11月11日指定

堀口藍園墓地の傍らにあります。根元周り14メートル、目通り周8.7メートル、樹高11メートル、枝張りは東西12メートル、南北14メートルです。

昭和38年までは樹高が27メートルありましたが、幹の空洞化が進んだため、主幹の地上9メートルを残して切られました。その後、幹を治療して樹勢を保っています。樹齢は約600年といわれています。

かつては樹齢200年以上の杉数本とともに森をなしていましたが、伊勢湾台風の時に杉は倒れ、この大ケヤキだけが残りました。

早尾神社の大ケヤキ(はやおじんじゃのおおけやき)

早尾神社の大ケヤキの写真

  • 県指定天然記念物
  • 昭和27年11月11日指定

中村の早尾神社の社殿前にあり、神木となっています。

根元周り11メートル、目通り周7.3メートル、樹高19メートル、枝張りは東西26メートル、南北22メートルです。

幹の空洞化が進んで危険なため、平成8年に主幹9メートルのところで切って治療したところ、樹勢が持ち直しました。樹齢はおよそ600年といわれています。

金島の浅間石(かなしまのあさまいし)

金島の浅間石の写真

  • 県指定天然記念物
  • 昭和27年11月11日指定

上越新幹線の橋脚のすぐ脇、吾妻川の川筋の近くにあります。天明3年(1783)の浅間山大噴火の際、川島村は浅間押し(泥流)に襲われて、集落168軒中127軒の家屋が流され、113人の流死者を出し、約54ヘクタールの田畑を失いました。

この大きな浅間石はその時のもので、大きさは東西15メートル、南北9.5メートル、高さ4メートルを測り、泥流の威力の大きさを物語っています。なお、周辺にはこのほかにも大きな浅間石が点在しています。

金蔵寺のシダレザクラ(こんぞうじのしだれざくら)

金蔵寺のシダレザクラの写真

  • 県指定天然記念物
  • 昭和27年11月11日指定

金蔵寺の山門を入ってすぐのところにあるシダレザクラです。この樹は「芋種桜(いもたねざくら)」と呼ばれ、花が咲く頃、里芋を植え付けます。根元周り6.2メートル、目通り周3.4メートル、枝張り東西17メートル、南北14メートル、シダレ枝の最長5メートル、樹高は12メートルあります。

シダレザクラには紅と白の花がありますが、これは白色です。樹齢はおよそ400年といわれています。

下郷の大クワ(しもごうのおおくわ)

下郷の大クワの写真

  • 県指定天然記念物
  • 昭和30年1月14日指定

渋川松井田線のすぐ北側、下郷の踏切の東側にあります。

この樹は根元から東西二幹に分かれ、東幹は目通り周2.1メートル、樹高約9メートル、西幹は目通り周2.2メートル、樹高約10メートルを測ります。両幹ともに空洞になっていましたが、治療して樹勢が回復してきました。

県内では沼田市の「薄根の大桑」に次ぐ桑の巨木で、同様にヤマグワ系統と考えられます。樹齢はおよそ400年以上といわれています。なお、現在群馬県が進めている「ぐんま絹遺産」に登録されています。

祖母島のキンモクセイ(うばしまのきんもくせい)

祖母島のキンモクセイの写真

  • 県指定天然記念物
  • 平成2年9月25日指定

キンモクセイは、中国原産の常緑広葉樹で、日本には雄木しかありません。

主幹は根元周り2.7メートルで、地上0.80メートルで5支幹に分かれます。各支幹周りは0.82メートルから1.1メートルです。樹高は8.5メートル、樹冠東西8.6メートル、南北9.3メートルを測ります。植栽の北限に近いと推定されますが、樹勢は旺盛で病虫害や大きな損傷はみられません。樹齢はおよそ260年といわれ、国内でも最大級のものです。

石原の宝篋印塔(いしはらのほうきょういんとう)

石原の宝篋印塔の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和45年9月25日指定

この塔は総高191センチメートルで、基礎が二間に区切られた関東形式です。基礎と塔身との間に中台と中台を受ける石があり、屋蓋(おくがい)を二段に重ねた異型の宝篋印塔です。

銘文は正面に「沙弥光専 敬白(しゃみこうせんけいはく)」、側面に観応(かんのう)2年(1351)3月13日とあります。屋蓋四隅の隅飾り突起は垂直で、南北朝時代の特色を表しています。

文安の薬師(ぶんあんのやくし)

文安の薬師の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和45年9月25日指定

この薬師石堂は中村の延命寺境内にあります。総高117センチメートルで、石堂の基礎に文安2年(1445)檀那心仙(だんなしんせん)とあり、室町期の薬師信仰がうかがえます。

塔身の四面に8体の護法仏とその間に華瓶(けびょう)が浮彫りされ、内部には薬師如来の石像が安置されています。なお、向拝(こうはい)部分には、元禄3年(1690)石原村の大嶋四郎兵衛尉がこの向拝を奉納したことが刻銘されています。

半田の早尾神社本殿(はんだのはやおじんじゃほんでん)

半田の早尾神社本殿の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和45年9月25日指定

本殿は覆屋(おおいや)の中にあり、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、柿葺(こけらぶき)総檜造(そうひのきづくり)です。

屋根は向拝を軒唐破風(のきからはふ)とし、正面に千鳥破風(ちどりはふ)を付けています。素木造(しらきづくり)で壁面・柱面・組物・虹梁(こうりょう)・手挟(たばさみ)・木鼻(きばな)・脇障子などの随所に彫刻を施しています。建物全体が彫刻作品と言ってよいほどです。

棟札によって、文化14年(1817)に青梨子(あおなし)村(現前橋市)の棟梁桜井丹後正(たんごのかみ)知義、半田村の宮大工山口利根七・阿久沢宗左衛門らによって造られたことがわかります。本殿の装飾彫刻はみごとで、江戸時代後期の特色をよく表しています。

渋川村市日文書(しぶかわむらいちびもんじょ)

渋川村市日文書の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和45年9月25日指定

渋川宿は慶長18年(1613)に長さ4町の宿がつくられ、上ノ町・中ノ町・下之町の3町が形成され、寛永7年(1630)には市が開かれるようになったようです。

この市日文書は、承応(じょうおう)3年(1654)の渋川宿の市日と商人75人の名、取り引きする商品名(座)が記されています。市は月6回、2・7の付く日に開かれる六斎市(ろくさいいち)で、上ノ町(2日・17日)、中ノ町(7日・22日)、下ノ町(12日・27日)と交互に市を開きました。また、座の構成から山地と平地の産物を取り引きした市の様子がわかります。

永享の五輪塔(えいきょうのごりんとう)

永享の五輪塔の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和45年9月25日指定

良珊寺(りょうさんじ)の北にあった千音寺跡の墓地にあります。この塔は総高114センチメートルで、永享6年(1434)の年号があり、室町時代の形をよく表しています。旧渋川市地区で年号を刻む五輪塔6基中、最も古いもので、水輪には四方に一字ずつ梵字(ぼんじ)が刻まれています。

この塔の隣に延徳4年(1492)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)もあり、今成氏祖先の墓碑と伝えられています。

眞光寺の一石造地蔵菩薩像(しんこうじのいっせきづくりじぞうぼさつぞう)

眞光寺の一石造地蔵菩薩像の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和47年10月20日指定

眞光寺境内の万日堂北側の墓地にあります。

基礎・塔身・笠が一石で造られていて、総高150センチメートルです。高さ65センチメートルの基礎部分の上に、家形の塔身と笠部を造り出しています。塔身中央には像高50センチメートルの地蔵菩薩の立像が浮彫りされ、左右両脇に花瓶が造り出され、そこから彩色で蓮花の図が描かれています。

笠部正面には中央に紋所、左右に日・月、三つ巴、唐草文様が浮彫りされ、左右両側の笠部上には径約6センチメートルの突起があり、その下に鬼面が彫られています。

塔身の銘文から、寛永18年(1641)に常玄(じょうげん)・成南(じょうなん)の供養のため建立された石塔と考えられます。

下郷の子育地蔵(しもごうのこそだてじぞう)

下郷の子育地蔵の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和48年1月26日指定

義範僧正(ぎはんそうじょう)は、宝暦2年(1752)70歳で眞光寺37世となりました。宝暦10年に下郷の龍雲庵に隠居した後も、間引き(口べらしのための産児圧殺)の悪習を強く戒めました。

この子育地蔵は、義範の死去から5年後の明和3年(1766)にその徳を慕う人々が建てたもので、その由来が光背(こうはい)の裏に328文字の漢文で刻まれています。

半肉彫りの赤子を抱き、片膝がけで座る地蔵尊像は、光背を含めて約1メートルの像高があります。下から2段目の台石には、打ち出の小槌やかくれ蓑などが刻まれています。

金井宿本陣の地下牢(かないじゅくほんじんのちかろう)

金井宿本陣の地下牢の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和48年5月22日指定

この地下牢は三国街道の金井宿本陣跡にあり、児童公園造成工事の際に偶然発見されました。広さ約12平方メートル、高さ2メートルの地下牢で、壁は自然石を積み上げ、南壁に小窓を設けています。

天井は松材の角梁を渡した上に、栗材の丸太割材を並べています。牢への降り口は7段の石段があり、入口には高さ1.65メートルの石の扉が左右に取り付けられ、非常に堅固な造りです。江戸時代中頃の築造と推定されます。

牢の上には足軽や軽輩の士が宿泊する家屋があったといいます。吾妻川が増水して川止めとなった時など、罪人を一時入牢させたりしたのでしょうか。

甲波宿禰神社の算額(かわすくねじんじゃのさんがく)

甲波宿禰神社の算額の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和50年1月30日指定

片品村出身の和算学者、千明慶悦(ちぎらけいえつ)が安政3年(1856)、北毛地域の門弟60余人の協力を得て奉納した算額です。慶悦は北牧(きたもく)などに住み和算を教えました。

額面は、直角三角形の底辺の長さを求める問題を代数を用いて解答しています。額の大きさは縦80センチメートル、横190センチメートルを測ります。この地方でも当時多くの人たちが和算を学んでいたことがわかります。

良珊寺の半鐘(りょうさんじのはんしょう)

良珊寺の半鐘の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和53年8月14日指定

良珊寺本堂内にあるこの鐘は、明暦2年(1656)に入沢五右衛門らによって寄進されたものです。眞光寺洪鐘(こうしょう)と同じく、中尾村(現高崎市)の金井五郎右衛門が鋳造したもので、鐘高65センチメートル、口径39.5センチメートルを測ります。

乳は4段4列で4間あり、池の間には39行345字の庚申信仰の銘文が刻まれています。

福島家の戦国文書(ふくしまけのせんごくもんじょ)

福島家の戦国文書の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和53年8月14日指定

この文書は、天正10年(1582)6月22日、小田原の北条氏が出した禁制で、上野国に進攻した輩下の軍勢の乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を禁じ、あわせて戦乱によって村を離れた祖母島・川島の住民に帰住を呼び掛けたものです。

信長の死後に上野国の領土化を進めつつあった北条氏が、滝川一益(かずます)を神流川の合戦で破った直後の最前線で出した文書です。北条氏の虎の印判が押された典型的な戦国文書です。

入澤家文書(いりさわけもんじょ)

入澤家文書の写真1入澤家文書の写真2

  • 市指定重要文化財
  • 昭和54年4月24日指定

入澤氏は北条時頼を祖とし、北条氏滅亡後、信濃国佐久郡入澤村に蟄居(ちっきょ)して姓を入澤と改め、信濃の豪族村上氏に仕えました。天文13年(1544)に渋川に移住し、吾妻郡大戸城主の大戸心楽斎に仕え、大戸氏の滅亡のあと帰農しました。現在、中世文書4点が残されており、戦国期における入澤氏や渋川の動向の一端を知ることができます。

  1. 信濃国退去の従者小池吉兵衛他12名書上、天文13年(1544):入澤新八郎時吉が渋川に落着したときの従者名と、当地名を「入澤」と名付けたいわれが書かれています。(写真:左)
  2. 大戸心楽斎宛行状(渋川内八幡免ほか25貫文)、年代不詳 :大戸心楽斎が入澤氏に渋川と八幡宮の知行地を分け与えた書状。
  3. 武田家定書(巣山2・3・4の3か月禁猟の事)、 天正9年(1581) :武田家に鷹を献上するための禁猟の令書。(写真:右)
  4. 北条氏直書状(改年の祝儀に感謝)、年代不詳:入澤氏が年賀に贈った太刀1腰と白鳥の返礼に、北条氏から太刀1腰が贈られた書状。

追加指定(近世・近代文書一括)

入澤家文書(屋敷寄せ帳)写真入澤家文書(各種)写真

  • 平成30年9月27日指定

中世文書と併せて所蔵されている、江戸初期から明治までの文書群です。渋川村の村政に関するものや地元の社寺に関するもの、土地・金銭の証文類や奉公人の請状など、近世期の当地方の様子を知ることができる史料が時代を通じて残されています。

千手観音立像(せんじゅかんのんりつぞう)

千手観音立像の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和55年10月29日指定

この像は、祖母島自治会館西の観音堂にあります。地元では鰐口(わにぐち)観音と称し、秘仏として信仰されてきました。

室町時代の作で、割矧造(わりはぎづくり)素地(そじ)仕上げ、総高108センチメートル、像高73.4センチメートルを測ります。頭上には阿弥陀如来の化仏(けぶつ)立像を正面に、十面の菩薩面を彫り出しています。台座、衣、頭髪には彩色の跡が見られ、円満な面相の口元には細いひげが描かれています。

堀口藍園印章・藍園詩鈔版木(ほりぐちらんえんいんしょう・らんえんししょうはんぎ)

堀口藍園印章の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和62年2月27日指定
藍園詩鈔版木の写真

堀口藍園は渋川郷学(きょうがく)の完成者で、多くの門弟を育成しました。藍園は号で、名は貞歙(さだはる)、字は張卿(ちょうけい)といい、菜翁・嗜辛斎(ししんさい)・野飯翁・菜田棲主人とも号しました。

印章は97個あり、子や孫の印章も含まれます。印材は石が最も多く、木や銅・水晶などもあります。

詩鈔版木は39枚あり、桜材でできています。門弟らが明治18年(1885)、藍園の漢詩のうち319編を選び、上中下3卷として刊行した詩鈔の版木です。

剣城の雲版(けんじょうのうんばん)

剣城の雲版の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成5年6月23日指定

雲版は主に禅宗寺院で、合図のために打ち鳴らす仏具です。
この雲版は畑から偶然発見されたものですが、その出土地点は半田剣城遺跡という中世城館跡にあたり、これまでの調査で濠跡や土塁の痕跡が見つかっています。

雲版は青銅製で、大きさは縦33.8センチメートル、横33.2センチメートルを測ります。吊手(つりて)両脇の肩の張りが強く、切れ込みが狭く深く巻き込んでいることから、南北朝時代の作と推定されています。

眞光寺涅槃図(しんこうじねはんず)

眞光寺涅槃図

  • 市指定重要文化財
  • 平成19年1月26日指定

眞光寺の涅槃図は、縦283センチメートル×横347センチメートルで、毎年2月15日の涅槃会(ねはんえ)にご開帳となります。

涅槃図は、死の床に横たわる釈迦と、周りを取り囲んであらゆる生き物が悲しんでいる様を題材とします。この涅槃図は、会津生まれの絵師、佐藤酔墨(すいぼく)が2年の時をかけて描き、天保13年(1842)に完成させました。酔墨は天保3年に眞光寺本堂の襖絵(ふすまえ)も描いています。遍照寺十二世竹渓(ちくけい)とも親交がありましたが、弘化3年(1846)には73歳で没し、海源寺(現富岡市)に葬られました。

涅槃図の裏面には、眞光寺末寺や門徒、檀家など600人余の名が記され、多くの人々から寄付を集めていたことがわかります。

旧有限責任渋川信用組合(きゅうゆうげんせきにんしぶかわしんようくみあい)

旧有限責任渋川信用組合の建物の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成23年7月27日指定

鉄筋コンクリート造であり、様式建築の要素を多く取り入れたアール・デコの建築です。

外観の全体的な意匠は、群馬県庁本庁舎(昭和庁舎)(昭和3年、国登録文化財)や、群馬会館(昭和4年、国登録文化財)と似たものになっています。

昭和初期における近世復興式と呼ばれた建築的特徴を備えた洋風建築としての価値とともに、太平洋戦争時の空襲による機銃掃射被弾痕が残り、歴史的にも貴重な遺構と言えます。

川島の獅子舞(かわしまのししまい)

川島の獅子舞の様子

  • 市指定重要無形民俗文化財
  • 昭和47年10月20日指定

この獅子舞は、鹿島流といわれる一人立ち獅子で、雄獅子・雌獅子・子獅子と、添役(そえやく)に天狗やおかめが加わり、棒術師、囃子(はやし)・謡方(うたいかた)の構成で演じられます。

舞は古くから川島の諏訪神社に奉納されてきましたが、天明3年(1783)の浅間山噴火の災害により中断してしまいました。しかし、天保年間頃には再興され、以来、代々氏子の長男に受けつがれてきました。

現在は保存会によって継承され、毎年10月上旬、川島甲波宿禰(かわすくね)神社境内にある諏訪神社の例祭に奉納されています。

行幸田の獅子舞(みゆきだのししまい)

行幸田の獅子舞の様子

  • 市指定重要無形民俗文化財
  • 昭和50年1月30日指定

この獅子舞は、行幸田の中筋地内にあった東西2つの諏訪神社に古くから奉納されていたものです。

明治年間にこの2つの諏訪神社が行幸田甲波宿禰(かわすくね)神社に合祀(ごうし)され、獅子舞も甲波宿禰神社に奉納されるようになり、五穀豊穣や悪魔払いなどの祈願がなされています。現在は4月17日に近い日曜日に同社に奉納されています。

舞は先獅子・中獅子・後獅子の3頭の獅子と、カンカチ・ササラなどで構成されています。笛にあわせて5つの舞と9つの切(きり)が演じられ、棒術も演じられます。

猿田彦神社の大和神楽(さるたひこじんじゃのやまとかぐら)

猿田彦神社の大和神楽

猿田彦神社の大和神楽の様子

  • 市指定重要無形民俗文化財
  • 昭和53年12月26日指定

石原の猿田彦神社(お庚申さま)に、毎年第2庚申の日(3月から4月)に奉納される神楽です。

天の岩戸開きの舞、八岐(やまた)の大蛇(おろち)の舞など、神話を劇化した36座からなる神代舞(じんだいまい)です。余興で振る舞う景品のなかには、養蚕の神として猿田彦大神と墨書した蚕座紙(さんざし)が含まれるのも特徴の1つです。

明治17年、前橋市元総社の総社神社の神楽を伝授され、以来氏子の相続人によって引き継がれ、現在は大和神楽講として受け継がれています。

なお、この祭礼の日は植木市などが開かれ、近隣の参拝者でにぎわいます。

八木原諏訪神社の太々神楽(やぎはらすわじんじゃのだいだいかぐら)

八木原諏訪神社の太々神楽

八木原諏訪神社の太々神楽の様子

  • 市指定重要無形民俗文化財
  • 平成9年10月29日指定

この神楽は、大正11年(1922)に桃井(もものい)村(榛東村)新井の舞師の指導を受け、氏子による太々神楽講が発足しました。

現在奉納されている太々神楽は、須佐之男命(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治など男子舞21座、乙女舞15座の計36座です。

出雲系の影響を受け、それに工夫を加えた神楽で、毎年4月12日、八木原の鎮守である諏訪神社に奉納されています。

渋川祇園囃子(しぶかわぎおんばやし)

囃子の写真

  • 市指定重要無形民俗文化財
  • 平成22年7月26日指定

渋川祇園囃子は、笛、太鼓、摺鉦(すりがね)の三拍子によって構成されています。

とくに梅の木を素材にして製作した大笛での演奏は、渋川山車まつりを最高に盛り上げ、独特の情緒を醸し出すことで、市民に親しまれています。梅笛(ばいてき)は、富士見町の横室から伝わり、渋川山車祭りとともに定着して、より太く、大きくきれいな音が出るよう独自に工夫発展してきたものです。一般的に使用されている篠笛と比べるとはるかに太く長く、渋川の梅笛は日本一太くて大きい横笛と言われています。

古来より先人から伝えられてきたお囃子の演奏技術をしっかりと守り、梅笛(ばいてき)製作の技術を習得させて後世に残すため、若い人たちにその伝統と文化を伝え、後継者を育てつつ継承しています。

八坂神社の神輿(やさかじんじゃのみこし)

八坂神社神輿の写真

  • 市指定重要有形民俗文化財
  • 平成28年3月24日指定

八坂神社神輿は宝永元年(1704年)に制作された江戸型神輿であり、工匠(こうしょう)は江戸本石町の錺屋角左衛門(かざりやかくざえもん)です。明治33年(1900年)には修理が施されていて、この際に箱台輪(はこだいわ)や錺金物の一部を取り替えていますが、その他の主要な部材は創建時からのものと判断でき、部分的に斗供(ときょう)の欠損がみられるものの、保存状態は良好です。

大きさは、柱間1尺7寸(箱台輪外法3尺6寸)、棟高4尺4寸、軒の出9寸。構造は、箱台輪の上に粽付(ちまきつき)の丸柱(まるばしら)4本からなる軸部を立ち上げ、柱間を長押(なげし)と頭貫(かしらぬき)で固め、丸柱上に平台輪と斗供を付け、丸桁(がぎょう)を四方に廻し、その上に垂木(たるき)を配付け、照り起り(てりむくり)のある方形(ほうぎょう)屋根を載せています。建築様式は、桟唐戸(さんからど)や詰組(つめぐみ)など禅宗様(ぜんしゅうよう)でまとめている。神輿の中心に真柱はなく、堂内に木型の坐像(衣冠束帯の牛頭天王(ごずてんのう))を安置しています。

群馬県内において、制作年が判明する最古の神輿であり、制作に関与した工匠の名前が判る数少ない作例として大変貴重なものです。また、この神輿は地域の中に根付いており、地域の文化財としての価値も高いものです。

八木原の道しるべ(やぎはらのみちしるべ)

八木原の道しるべの写真

  • 市指定史跡
  • 昭和47年10月20日指定

佐渡奉行街道の八木原宿南の三叉路にあり、天保4年(1833)に建立されたものです。

三角錐形の安山岩自然石で、塔身の高さは133センチメートルです。

表面の上部に「右高崎」「左江戸」と大きく記され、その下に県内では榛名山・妙義山・一之宮、県外では日光山や善光寺、さらには伊勢神宮・京都・大坂・讃州金毘羅(さんしゅうこんぴら)への道のりが刻まれています。

江戸時代末期の庶民の信仰と旅の広がりを示すよい資料です。

金井古墳(かないこふん)

金井古墳の写真

  • 市指定史跡
  • 昭和48年8月20日指定

6世紀中頃の榛名山の噴火で堆積した軽石層を切り開いて造られた、直径14メートルの山寄せの小円墳です。

埋葬施設は両袖型の横穴式石室で、天井石はすべて抜かれ、側壁の上部も壊されています。玄室は最大幅が2.0メートル、長さ2.3メートル、高さは奥壁付近で2.1メートルを測ります。羨道部は長さ2.8メートル、幅1.2メートルです。石室の石材は角閃石安山岩の截石と自然石が使われ、玄門は左右袖部の石を突出させて門柱としています。玄門上には冠石が残っています。玄門の手前には、截石2石を左右に立てて、扉石としています。羨門はブロック状の截石を積み上げてつくり、閉塞の前面にも截石を積んで塞いでいます。

入口部の左右には石組みの前庭部が広がっています。

遺物は石室内から鉄釘や鉄鏃片、前庭部から須恵器大甕(おおがめ)・坏(つき)・有蓋短頸壺(ゆうがいたんけいこ)、土師器坏などが出土しています。

平地からは見通せない谷の奥に入った立地など、典型的な終末期古墳と言えるもので、7世紀末に築造された古墳と考えられます。

空沢遺跡(からさわいせき)

空沢遺跡の写真

  • 市指定史跡
  • 昭和55年10月29日指定

この遺跡は、渋川市で最初の本格的な発掘調査が行われた記念碑的な遺跡です。

縄文時代から近世に至る遺構が存在する複合遺跡で、縄文時代中期後半から後期には、敷石住居跡や列石などを伴う大規模な集落が形成され、弥生時代後期には円形周溝墓(しゅうこうぼ)などの墓が営まれました。

また、縄文・弥生時代の集落の上には、50基以上の古墳からなる群集墳が営まれています。その大半は5世紀後半から6世紀初頭の短期間に築造され、6世紀初頭の榛名山の噴火による火山灰で埋没した初期群集墳です。前方後円墳はなく、円墳が主体となりますが、小形の方形積石塚(つみいしづか)も含まれます。

その後、平安時代には40軒以上の住居跡・墓壙・小鍛冶跡からなる集落が営まれています。

木暮足翁の墓(こぐれそくおうのはか)

木暮足翁の墓の写真

  • 市指定史跡
  • 昭和57年5月15日指定

足翁は寛政元年(1789)、渋川村の馬問屋に生まれ、通称を五十槻、名は賢樹といいます。吉田芝渓(しけい)、僧周休(しゅうきゅう)、屋代弘賢(こうけん)などに漢学・漢詩・国学を学びました。

私塾を開いて子弟の教育にあたり、多くの門弟を養成して「横町の先生」と呼ばれました。

のちに医学を紀州の華岡青洲(はなおかせいしゅう)に学び、天然痘の予防接種を行うなど、地域医療に貢献しました。また、高野長英に蘭学の教えも受けました。文久(ぶんきゅう)2年(1862)、74歳で没しました。

高橋蘭斎の墓(たかはしらんさいのはか)

高橋蘭斎の墓の写真

  • 市指定史跡
  • 昭和57年5月15日指定

蘭斎は寛政11年(1799)渋川村裏宿に生まれ、通称を茂右衛門、号を可度、勇魚ともいいます。木暮足翁(そくおう)に和漢を、さらに巡遊してきた近江の大寂庵立綱(だいじゃくあんりっこう)に和歌を学びました。

農家で馬問屋を兼ね、名主も務めましたが、医師を志し江戸へ出て、宇田川榕庵(うだがわようあん)に蘭医学を学びました。帰郷してのち、医業のかたわら塾を開き、堀口藍園など多くの門弟を養成しました。明治15年(1882)に84歳で没しました。

大島家墓地の石堂墓石(おおしまけぼちのせきどうぼせき)

大島家墓地の石堂墓石の写真

  • 市指定史跡
  • 昭和62年2月27日指定

地侍大島氏は新田一門の義継の子孫を称し、戦国期には白井城主長尾氏に、落城後は安中城主井伊氏に仕え、渋川村他4か村の支配を委ねられました。

この石堂墓石は、大島式部信忠、郷左衛門信吉、半左衛門信光、五郎右衛門信政の4基で、寛永20年(1643)から延宝(えんぽう)元年(1673)までに造立されたものです。

4基とも二段の基礎・塔身・屋蓋(おくがい)・相輪(後補のものは宝珠と請花(うけばな))の5石からできています。総高263センチメートル(信吉)から198センチメートル(信政)であり、江戸時代前期の農民層の墓石としては規模が大きく造りも優秀で、この地方では類をみないものです。

岸豊後守積保の墓(きしぶんごのかみつみやすのはか)

岸豊後守積保の墓の写真

  • 市指定史跡
  • 平成2年6月27日指定

積保は、享保20年(1735)に金井村に生まれ、家業の宮大工となりました。

明和年間に京都で卜部(うらべ)氏に学び、岸豊後守の号を授けられました。

大棟梁(だいとうりょう)として妙義神社総門や伊勢崎市の宝幢院(ほうどういん)本堂など、社寺を建造するかたわら多くの門弟を養成しました。天明3年(1783)に49歳で没しました。

壱銭職の聖徳太子塔(いっせんしょくのしょうとくたいしとう)

壱銭職の聖徳太子塔の写真

  • 市指定史跡
  • 平成7年11月29日指定

この塔は、眞光寺境内の太子堂前にあります。安政3年(1856)に渋川村中ノ町武蔵屋梅八が願主となり、当時壱銭職と呼ばれた100人ほどの髪結床(かみゆいどこ)の人たちが、諸職の神である聖徳太子をまつった、総高250センチメートルの塔です。

塔身に聖徳太子孝養像と、髪結(かみゆい)武蔵屋梅八の座像が刻まれています。信州高遠の石工(いしく)の作です。

刻まれた屋号や地名から、江戸時代後期の髪結床の動きがわかる、県内に例のない貴重な石造物です。

金蔵寺のナンテン(こんぞうじのなんてん)

金蔵寺のナンテンの写真

  • 市指定天然記念物
  • 昭和48年1月26日指定

赤ナンテンの類で、株立周りは1.3メートル、そこから15本の株立ちがあり、太い株周りは20センチメートルもあります。

樹高は4.6メートル、枝張りは東西3メートル、南北2メートルです。

金蔵寺44世亮覚(りょうかく)和尚の代に植えたと伝えられ、樹齢はおよそ170年と推定されています。

二ツ岳の軽石層(ふたつだけのけいせきそう)

二ツ岳の軽石層の写真

  • 市指定天然記念物
  • 昭和60年3月22日指定

軽石層は、榛名山の寄生火山である二ツ岳付近の噴火(6世紀中頃)により、偏西風の影響を受け東北方向に分布し、遠くは福島県猪苗代湖周辺でも確認されています。

この総合公園内の軽石は、厚さ3.5メートルを測ります。渋川地区の金井・川島や子持地区に厚く堆積していて、コンクリートブロックの材料に使用される一方、遺跡発掘の時代判定にも役立っています。子持地区の国指定史跡である黒井峯遺跡は、この軽石で埋没した集落跡です。

中村の浅間石(なかむらのあさまいし)

中村の浅間石の写真

  • 市指定天然記念物
  • 昭和60年3月22日指定

天明3年(1783)の浅間山大噴火の際、この浅間石付近の中島の低地には67軒の集落がありました。その家屋のすべてが浅間押し(泥流)で流され、24人の流死者が出て、約51ヘクタールの田畑を失いました。

この大きな浅間石はその時のもので、約800メートル南で発見されたものを、この場所に移築復元したものです。

大きさは東西11メートル、南北10メートル、高さ4.6メートルを測ります。

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渋川市教育部文化財保護課文化財係

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