旧赤城村地区の指定文化財
石造不動明王立像附像内納入品一括(せきぞうふどうみょうおうりゅうぞうつけたりぞうないのうにゅうひんいっかつ)
- 国指定重要文化財
- 昭和38年2月14日指定
石造不動明王立像は、不動寺境内の自然洞内に安置され、高さ166センチメートル、腰回り157センチメートルとほぼ等身大の大きさにつくられています。蛇紋岩質軽石凝灰岩を丸彫りしており、片目を半眼に片目をかっと開く一目諦視(いちもくていし)の忿怒相(ふんぬそう)、右手は腰に智剣をとり、左手は絹索(けんさく)をとって垂らした典型的な型です。
腰部で二分され、上下それぞれの中心に径10センチメートル、深さ15センチメートルほどの円筒形の穴があり、その中に両部曼荼羅(りょうぶまんだら)、いろは歌を書いた紙片が納めてありました。
また、上下両断面と岩座(いわざ)上面に墨書銘があります。それによると建長3年(1251)に、新田一族の里見氏義(うじよし)が現世利益・仏法興隆を願って、院隆(いんりゅう)・院快(いんかい)の両仏師につくらせたということです。力強いながらも温厚な雰囲気をただよわせており、優美で重厚な鎌倉期の特徴がうかがえます。
悪魔を降伏(ごうぶく)し、行者を護り、知恵と長寿をさずける不動明王として、多くの信仰を集めて「宮田のお不動様」として親しまれてきました。現在は年に一度、1月28日の縁日に拝むことができます。
上三原田の歌舞伎舞台(かみみはらだのかぶきぶたい)
- 国指定重要有形民俗文化財
- 昭和35年6月9日指定
全国に例を見ない特殊な機構を持つ上三原田の歌舞伎舞台は、字高井の大工永井長治郎が上方に修行に行き、帰郷後の文政2年(1819)、字大門の赤城山天竜寺内に建築したと伝えられています。その後、明治初期に天竜寺に学校と連合村役場が置かれたため、現在地に移されたといいます。
この上三原田の歌舞伎舞台には、4つの特徴があります。1つめがガンドウ返しと呼ばれる機構で、左右の板壁を外側に倒して舞台面を広げます。2つめが遠見(とおみ)機構で、奥壁を倒して舞台の奥に遠見と呼ぶ背景をつけ、奥行きを深く見せます。3つめは舞台中央部を回す廻転機構です。4つめがナベブタ(床の廻転部)中央の「二重」という小舞台を、奈落からせり上げるとともに、天井からもせり下ろす二重セリと呼ばれるセリヒキ機構です。また、舞台の装置、操作は、国から記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財とされています。
瀧沢石器時代遺跡(たきざわせっきじだいいせき)
- 国指定史跡
- 昭和2年4月8日指定
- 平成16年2月27日追加指定
赤城山の西麓に発達した標高300メートルほどの舌状台地上に広がる瀧沢遺跡は、旧石器・縄文早から晩期・弥生・古墳・平安時代に及ぶ複合集落遺跡です。
大正15年(1926)、博物学者の岩澤正作(いわさわしょうさく)らによって調査され、長さ1mを超す大石棒や炉跡(ろあと)・配石遺構が発見され、昭和2年に国指定史跡となりました。
平成9年度以降、保存整備に向けた発掘調査が行われ、遺跡の中央部で発見された縄文時代後晩期の配石遺構が、直径30メートル以上の大規模な環状列石であることが確認され、土偶や岩版・石棒などの祭祀(さいし)遺物が多数出土しました。また、環状列石よりも一回り大きな盛土(もりど)遺構が形成されていたこともわかってきました。
数多くの土器・石器のほか土偶・動物形土製品・土製耳飾(みみかざり)なども出土しており、その多くは赤城歴史資料館に保管されています。
敷島のキンメイチク(しきしまのきんめいちく)
- 国指定天然記念物
- 昭和28年11月14日指定
津久田の八幡宮境内に約100本が叢生(そうせい)しています。キンメイチクはマダケの変種で、別名メジロタケともいい、緑色の部分と黄金色の部分とが節ごとに交互に縦縞(たてじま)となって現れます。雨に洗われた後など、緑と黄金色の対比が夕日に映えて美しく輝いています。
竹は約60年ごとに花を咲かせ、その群落が一斉に枯死してしまうことがあります。ここのキンメイチクも昭和43年春頃に急に開花して、枯死するのではないかと危ぶまれましたが、人々の手厚い管理によってよみがえりました。
津久田の人形舞台附人形(つくだのにんぎょうぶたいつけたりにんぎょう)
- 県指定重要有形民俗文化財
- 昭和58年2月22日指定
津久田の八幡宮の氏子によって伝えられてきた津久田人形は、三人遣いによる文楽の江戸系人形といわれ、38体が現存しています。人形芝居が始められたのは、享保8年(1723)に角田氏一族が「さくら座」を結成したと「八幡宮操人形覚書(はちまんぐうあやつりにんぎょうおぼえがき)」という文書にあるので、その頃だと思われます。
舞台は、歌舞伎と人形芝居の両方に使用できる構造をもち、文化8年(1811)に建てられました。正面1軒幅の床板が撤去でき、人形舞台としても使用できるよう工夫されています。舞台奥の床が2尺6寸(約86センチメートル)上げられ、造りつけ3重になっているほか、奥壁・左右壁(1軒幅)にガンドウ返しが設けられ、折畳式底束(おりたたみしきゆかづか)がつけられた珍しい造りの舞台です。
また、「八幡宮・操人数覚帳(あやつりにんずうおぼえちょう)」「操新人数入後諸道具之覚(あやつりしんにんずういりのちしょどうぐのおぼえ)」など貴重な古文書も残されています。
長井坂城跡(ながいざかじょうあと)
- 県指定史跡
- 昭和55年9月16日指定
北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に望む断崖城(だんがいじょう)で、南北260メートル、東西約180メートルほどの囲郭式(いかくしき)の山城です。西端の断崖上に高さ2.5メートルの土塁で三方を囲まれた本郭があります。
「加沢記」に、永禄3年(1560)上杉謙信が関東に出馬し、沼田城を直攻せずここに陣を張り、降伏した沼田顕泰(あきやす)(万鬼斎)を引見したとあることや、城郭構造からみて永禄期以降の築城と考えられます。
天正の初めに北条氏の持ち城となり、近隣の地侍(じざむらい)集団が城番を勤めました。天正6年(1578)真田氏が沼田城を略取すると、長井坂城が鉢形城(はちがたじょう)を核とした北条方の北方最前線の要となって、北条・真田両軍激突の攻防が繰り返されましたが、天正18年の小田原城の落城とともに廃城となりました。
三原田諏訪上遺跡瓦塔設置仏教遺構(みはらだすわがみいせきがとうせっちぶっきょういこう)
- 県指定史跡
- 平成15年3月25日指定
瓦塔設置仏教遺構は、掘り込み地業が行われていたことによって、瓦塔の設置の様子がよく推定できます。古代上野(こうずけ)の村落における仏教文化の定着と信仰進行の様子がわかる遺跡です。
写真は同遺跡から出土した瓦塔(左・がとう)と瓦堂(がどう)(右・がどう)を復元したものです。
桜森のヒガンザクラ(さくらもりのひがんざくら)
- 県指定天然記念物
- 昭和26年10月5日指定
樹高約12メートル、目通り周4.8メートル、樹齢400年と推定されるヒガンザクラです。
この桜は学名をベニタチヒガンザクラといい、花は早春に咲き出し、花の紅色が濃く、枝がしだれないで直立します。県下でも珍しく、貴重な名木といえます。
現在は数本を残すのみですが、かつて八幡宮境内には桜樹が多く、「桜の森」と呼ばれて桜の名所として親しまれていました。
溝呂木の大ケヤキ(みぞろぎのおおけやき)
- 県指定天然記念物
- 昭和43年5月4日指定
鎮守諏訪神社の境内にあり、高さ38メートル、目通り周9メートル、樹齢は約800年と推定されています。
以前は境内に数本のケヤキがありましたが、伐採されてこの1本だけが御神木として残されました。
神社の東には旧沼田街道が通り、神社付近は溝呂木宿として栄え、本陣・問屋をはじめ旅籠(はたご)・茶屋などが軒を並べ、多くの旅人でにぎわったようです。
ヒメギフチョウ(ひめぎふちょう)
- 県指定天然記念物
- 昭和61年3月7日指定
ヒメギフチョウはアゲハチョウの仲間で、羽全体に黄色と黒の縞模様(しまもよう)があり、後羽に朱色の帯があります。その可憐な姿から「春の女神」、体毛が多いことや氷河期時代の近縁種の化石が発見されていることから「生きた化石」などと呼ばれ、人々に愛されています。
関東地方では現在、本市の北赤城山のみに生息する貴重なチョウで、昭和42年に絶滅したと言われていましたが、昭和56年頃再び見られるようになりました。
その後、地元の人々や小学校、ヒメギフチョウの保護団体、旧赤城村及び県の教育委員会の努力が実を結び、生息数もだいぶ増えはじめています。
庚申塚の道しるべ(こうしんづかのみちしるべ)
- 市指定重要文化財
- 昭和45年3月20日指定
もとは旧沼田街道の六本辻の中央に埋め込まれていたものを、道路改修に際して10メートルほど移動しました。
安山岩を円錐台形に整形し、上面を研磨して中心に「心」字、そのまわりに方位、その外側に「赤城三里半 日光十八里余 前橋三里半 高崎六里余 榛名六里 沼田五里半」と六方面の行き先と道程を放射状に刻み、外周に「よつの方 むつのちまたに わかるれど こころしづかに たづねてぞゆけ」と時計回りに、当地幕末の文人狩野花交(かこう)の道歌を彫った、大変珍しい道しるべです。
角田無幻道人の遺品(つのだむげんどうじんのいひん)
- 市指定重要文化財
- 昭和45年3月20日指定
無幻は吉岡の下野田の出身で、書家であり修験者でもあります。幼少時より教学に励む傍ら、書に親しみ、上州に来遊した江戸の書家・儒学者の東江源鱗(とうこうげんりん)に書法をに学びました。
寛政4年に上洛すると、たまたま書き与えた商家の看板が庭田大納言の目にとまり、大納言のすすめにより光格天皇に千字文を奉呈しました。以後、無幻の名は洛中に広まり、次々と書帖の出版を重ねました。
道人の遺品には、墨画・書幅・愛用の「みご筆」など書に関するもののほか、日常用いた法衣(ほうえ)・袈裟(けさ)・錫杖(しゃくじょう)などがあります。
溝呂木の神輿(みぞろぎのみこし)
- 市指定重要文化財
- 昭和46年3月26日指定
諏訪神社の境内摂社(せっしゃ)である八坂神社の神輿で、黒漆仕上げの精巧な造りです。
屋蓋(おくがい)の組木に「宝暦三癸酉正月 大工北牧後藤 八崎村 天下長久」と墨書があるため、八崎(北橘村)の八坂神社(現赤城神社摂社)の神輿として、北牧(きたもく)の大工後藤氏が宝暦3年(1753)に製作したものであることが分かっています。
一説によれば、伝染病の流行により壊されそうになった神輿を、溝呂木の狩野六兵衛氏が譲り受け、その後溝呂木に寄進し、摂社八坂神社の神輿となったと言われています。しかし言い伝えを裏付けるものは見つかっていません。
宮田の石灯籠(みやだのいしどうろう)
- 市指定重要文化財
- 昭和46年3月25日指定
宮田神社境内の東の崖際(がけぎわ)にあり、安山岩製で総高約162センチメートルを測ります。
笠の勾配やふくらみ、中台に刻まれた竪連子(たてれんじ)、中台下面、基台に刻んだ蓮弁などに室町期の特徴がよく表れています。
嘉吉3年(1443)の建立で、熊野神社別当の南光院にあったものを、明治初年に現在地に移動したといいます。
赤城護国神社社殿(あかぎごこくじんじゃしゃでん)
- 市指定重要文化財
- 昭和49年7月25日指定
赤城神社本殿の左後ろにあります。間口2.1メートル、奥行2.16メートル、高さ3.3メートルの桟瓦葺(さんがわらぶき)、入母屋土蔵造(いりもやどぞうづくり)で、正面に観音開きの鉄扉が付いています。
敷島小学校(現津久田小学校)の奉安殿(ほうあんでん)として、大正10年(1921)に個人の寄附金によって建てられました。奉安殿がまだ珍しかった時期のものです。屋根は面積に合わせた特注の藤岡瓦、壁は中に金網を塗り込め、表面は大磯産の黒石を用いた洗い出し仕上げ、その他の資材は赤城村産を用い、職人もすべて赤城村人という、珍しい近代化遺産です。
戦後しばらく同小学校の倉庫に使われていましたが、昭和49年に現在地に移され、昭和52年から赤城護国神社社殿として用いられています。
勝保沢の十一面観音堂(かつぼさわのじゅういちめんかんのんどう)
- 市指定重要文化財
- 昭和56年5月1日指定
快中山宗玄寺(かいちゅうざんそうげんじ)境内に入ってすぐ左手に、寛政10年(1798)に建てられた十一面観音堂があります。
勝保沢出身の姫路藩士、石本勝左衛門勝辰が、少年の頃出世を夢みて江戸に上り、みごと夢がかなったことから感謝の意を込めて、地元の大工星野幸右衛門に建てさせたものです。以来この観音様は出世観音と呼ばれ、広く近隣の 人々の崇敬を集め、大切にまつられています。
銅板葺(どうばんぶき)入母屋造(いりもやづくり)で、間口2間、奥行2間半、唐破風(からはふ)1間の向拝(こうはい)がつきます。欄間(らんま)・火灯窓(かとうまど)に透彫、虹梁(こうりょう)・木鼻(きばな)・蟇股(かえるまた)には彩色された彫刻が施されています。もとは字下り(さがり)にありましたが、明治31年(1898)現地に移築されました。
三原田の宝篋印塔群(みはらだのほうきょういんとうぐん)
- 市指定重要文化財
- 昭和56年5月1日指定
興禅寺(こうぜんじ)の墓地にあり、関東式8基、関西式3基、その他1基の計12基からなるこの宝篋印塔群です。
応永3年(1396)から長享元年(1487)までの室町期の紀年銘をもちます。「関東幕注文(かんとうばくちゅうもん)」に永禄3年(1560)以前からこの地に居住したと思われる三原田氏の名が出てくるので、この塔群が三原田氏の墓塔または供養塔の可能性が高いですが、詳細は不明です。
塔群は永井家墓地内にあるため、永井家によって昔から祖先の墓として、大切にまつられています。
津久田の赤城神社本殿(つくだのあかぎじんじゃほんでん)
- 市指定重要文化財
- 平成19年1月26日指定
この社殿は、近郷10か村の氏子の寄進によって、安永3年(1774)に再建されました。本殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、各胴羽目(どうはめ)に彫刻が刻まれています。
平成17年の大改修をする際、彫刻を外したところ裏面に「東上州上田沢村 彫物師 関口文次郎」「安永三年午ノ七月□□」「弟子 助次良 徳次良 善次良 傳次良 願主 佐次兵衛也」の墨書銘が見つかり、本殿彫刻の時期と彫刻師が特定されました。
関口文次郎は生まれ故郷の上田沢村(現桐生市)に彫刻師集団を創設して棟梁となった人で、県内では榛名神社や桐生天満宮などの彫刻を手がけています。
勝保沢の太々神楽(かつぼさわのだいだいかぐら)
- 市指定重要無形民俗文化財
- 昭和46年3月26日指定
諏訪神社の春の例祭に、氏子若衆が奉納する里神楽です。
神楽奉納の歴史は比較的新しく、大正時代の初めに、富士見村市之木場(いちのきば)の石尊宮(せきそんぐう)氏子から伝授されたといわれ、神楽講は埼玉県の御嶽神社所属の豊穂会に属しています。このことから当地の御嶽神社の人々が伝授を受けたものかと思われます。
神楽は毎年4月29日に諏訪神社境内の神楽殿で奉納されます。舞は祭式舞が7座、愛嬌舞(あいきょうまい)が12座、囃子は11種あります。ゆるやかな動きが特徴的です。神楽面の一部は、赤城歴史資料館に委託保管し、展示しています。
津久田の獅子舞(つくだのししまい)
- 市指定重要無形民俗文化財
- 昭和46年3月26日指定
毎年8月上旬の八坂神社の例祭に奉納される中組の若衆による獅子舞です。
八坂神社前、頭屋(とうや)(行事の中心役)の庭、八幡宮前の3カ所で披露されます。獅子頭は牡・牝・子の3種で、目尻はつり上がっていますが、全体に鹿を思わせる相です。このことからこの獅子舞は北方系と考えられています。舞は5種類あり、笛と太鼓のお囃子(はやし)の他、5種の真中のひとつにだけ唄が入ります。全体としてゆるやかで優美な舞いです。
獅子頭は通常、赤城歴史資料館で見ることができます。江戸初期に由来するといわれ、長い伝統がしのばれます。
三原田獅子舞(みはらだししまい)
- 市指定重要無形民俗文化財
- 昭和58年5月16日指定
三原田字諏訪上(すわかみ)にあった諏訪神社の氏子が8月27日の例祭に奉納したもので、昭和13年に中絶し、保存会によって昭和57年に復活しました。始まりは明らかではないですが、腰鼓(ようこ)に「安永四年(1775)乙未九月吉日」と書かれているので、18世紀後半まではさかのぼるようです。現在では4月15日に近い日曜日に八幡宮で舞われます。
獅子頭は張子製で角がなく、獅子鼻の唐獅子型で、呼び方も牡・牝はそのままですが、子ではなく法眼(ほうげん)といいます。頭には牡は赤、牝は青、法眼は黒の御弊(ごへい)をつけます。また、舞子は少年で服装は同じですが、手にした撥で腰鼓を打ちながら舞います。2人の道化(成人)がつきます。
舞は「しんぷり」「おいざさら」「ばみ」の3種があります。
津久田鏡の森歌舞伎舞台(つくだかがみのもりかぶきぶたい)
- 市指定重要有形民俗文化財
- 昭和58年1月20日指定
赤城神社の境内にあり、間口5間(約10メートル)、奥行5間半、入母屋造(いりもやづくり)の固定式農村歌舞伎舞台です。内部は平舞台・二重・三重の3部分に分けられ、平舞台左右の板壁は、開演時は外に倒され、舞台面を広げるガンドウ機構になっています。
三重は、奥壁が外に倒せるようにつくられた遠見機構で、奥行を深く見せることができます。
二重は、底に木製の車が取り付けられ、左右に移動できる工夫がされています。
開演時には舞台前面の左右に下座(げざ)と呼ばれる囃子(はやし)や義太夫(ぎだゆう)の席が付き、正面左側の下下座には花道が付けられます。
この舞台は、残されている「舞屋木数覚之帳(まいやきかずおぼえのちょう)」などから明治2年(1869)に建築されたと考えられます。
津久田城跡(つくだじょうあと)
- 市指定史跡
- 昭和45年3月20日指定
北は沼尾川、西は利根川に臨む急崖(きゅうがい)上にあり、東西約300メートル、南北約130メートルの並郭式(へいかくしき)の崖端城(がけばたじょう)で、北西隅に本丸、その南に二の丸、東に三の丸、外郭(そとぐるわ)と続く縄張りの要害でした。
築城年代は不明ですが、古文書や城郭図から永禄元年から永禄11年(1558から1568)頃と考えられます。
赤城地区の狩野氏は伊豆狩野氏の末流といわれ、戦国時代末期には狩野大学助が一族や付近の地侍を統合し、津久田衆と呼ばれる軍団を組織し、この城を居城としていたようです。
天正6年(1578)以降、北条・真田両氏の接点となった長井坂城の後詰(ごづめ)の城として、津久田城はしばしば戦火にさらされます。その意味で歴史的に重要な城だったと言えます。
昭和42年に農業構造改善事業のために削平され、主要部分は跡形もありませんが、台地縁に土塁が残り、そこから下った場所にある腰郭がわずかに当時の様子を残しています。
角田無幻道人の遺髪塚(つのだむげんどうじんのいはつづか)
- 市指定史跡
- 昭和45年3月20日指定
角田無幻(光劉、こうりゅう)は寛保3年(1743)下野田村(現吉岡町)の修験宗(しゅげんしゅう)華蔵寺の亮観(りょうかん)の二男として生まれました。幼少時から教学(宗教学)を学び、衰退した修験宗の興隆に努め、中年の頃招かれて京都に上り、大善院の住職となり、兄良沿(りょうえん)とともに修験宗門弟の講学所森学寮の創立にあたり、門弟の指導に尽力しました。
また、書家としても、在京中に光格天皇に自筆の千字文を奉呈したことから洛中に名を知られ、種々の諸本が出版されました。後に利根の賢和(けんな)、吾妻の延陵(えんりょう)とともに「上毛の三筆」と称されました。
文化6年(1809)京都で没し、真如堂(しんにょどう)に葬られましたが、上州の弟子たちが遺髪を持参し、琴平山中腹にある無幻道人建立の寂照山という寺の跡に遺髪塚を建てました。石碑には、無幻書の円頓章(えんとんしょう)、中山簡斎(かんさい)書の銘文が刻まれています。
いなり塚古墳(いなりづかこふん)
- 市指定史跡
- 昭和45年3月20日指定
利根川左岸の河岸段丘の平坦面に造営された後期古墳です。
墳丘には河原石による葺石と幅1メートルほどのテラス面が見られ、墳丘径約20メートルの2段築造の円墳と考えられます。
埋葬施設は、現存全長6.14メートルの自然石乱積(らんせきつみ)の袖無型(そでなしがた)横穴式石室で、石材には輝石安山岩(きせきあんざんがん)の転石や壊石が使用され、壁面には赤色顔料が塗布されています。
築造年代は6世紀中葉の榛名山の軽石降下から間もない頃と考えられ、利根川上流域の後期古墳における横穴式石室導入期の好例といえます。
不動山城跡(ふどうやまじょうあと)
- 市指定史跡
- 昭和55年3月6日指定
台地の西端に東西約50メートル、幅約30メートルの本丸を設け、東に二の丸、三の丸と続けた東西約250メートル、幅約100メートルの並郭式崖端城(へいかくしきがけばたじょう)で、今も腰郭・空壕(からぼり)などまでよく残っています。
築城年代は、古文書や城の構造から永禄元年から永禄12年(1558から1569)頃と推測されます。
天正8年(1580)真田氏の大侵攻の時、先陣の海野中務大輔(うんのなかつかさのたいふ)が700騎を率いて攻めますが、攻めあぐんでいると大将真田昌幸から不甲斐ないと叱られ、全騎下馬して突撃しようやく陥した、と「加沢記」に記されるほど難攻不落の城でした。
千石稲荷神社(せんごくいなりじんじゃ)
(注意)指定文化財ではありません
昔、千石山には「使わしめ」とされる白狐が棲むといわれていました。そのことから天文16年(1547)源義康(伝不明)という人が奉斎(ほうさい)し、天保12年(1841)京都の伏見稲荷を勧請(かんじょう)したと伝えられています。
流造(ながれづくり)の小さな本殿は、形の整った美しい建築です。 やがて天明の頃、天明1年から寛政1年(1781から1789)伝左衛門という人が絹1疋を盗まれたが、当社の霊験(れいげん)により盗品が戻ったという伝説が生まれ、五穀豊穣のほか、盗品除けの神としても崇敬を集めるようになりました。