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渋川市トップ > 旧北橘村地区の指定文化財

旧北橘村地区の指定文化財

深鉢形土器9個・浅鉢形土器1個(群馬県渋川市房谷戸遺跡出土品)

房谷戸遺跡出土の土器の写真

  • 国指定重要文化財
  • 平成3年6月21日指定

  八崎(はっさき)字栗崎上・房谷戸に所在する縄文時代中期前半の集落です。昭和62年・昭和63年に関越自動車道の工事に先立ち、発掘調査が実施されました。東関東を中心とする阿玉台式(あたまだいしき)、西関東を中心とする勝坂式(かつさかしき)、そして、在地の土器が共存するのが特徴です。このうち10点が平成3年に国指定重要文化財となりました。

  写真では大型の深鉢4個体と浅鉢が阿玉台式、小から中型の深鉢5個体が勝坂式と在地の土器群です。

群馬県道訓前遺跡出土品(ぐんまけんどうくんまえいせきしゅつどひん)

群馬県道訓前遺跡出土品の写真

  • 国指定重要文化財
  • 平成19年6月8日指定

  道訓前遺跡は上箱田字道訓前・道訓塚に所在しています。平成8年度・平成9年度に発掘調査が行われ、縄文時代中期中葉から後葉にかけての大規模な環状集落であることが判明しました。このうち竪穴住居跡40軒、土坑264基が調査されています。

  土器では、群馬県西部から長野県東部にかけて比較的限定された地域に見られる独特な文様の「焼町土器(やけまちどき)」、赤城山麓を中心に分布する個性豊かな「三原田式土器」、三原田式はやがて南関東の「加曽利E1式土器」へ変容・吸収され、「加曽利E2式」期にこの遺跡は終焉を迎えます。石器類には、使用痕の目立つ打製石斧や磨石が多く、特殊形状の石皿や石棒、耳飾、砥石などがあります。

  道訓前遺跡からの出土遺物は、新潟県や長野県・南関東、北関東の他地域との文化交流の様子や、赤城山麓独自の地域文化の芽生えを示しています。こうした点が評価され、その出土品165点が国の重要文化財に指定されました。

石剣(せっけん)

石剣の写真

  • 県指定重要文化財
  • 昭和29年3月30日指定

  縄文時代後晩期のものと考えられる小さな形の石剣です。出土地はよくわかりませんが、箱田の木曽三柱神社の社宝としてまつられています。

  全長30センチメートル、柄部長12センチメートル、柄部幅1.5センチメートル、刀身の厚さは0.8センチメートルを測ります。蛇のようにくねり、丁寧に磨かれています。黒光りして、黄色や緑色の模様のある蛇紋岩でつくられています。出土地は不明で、呪術的・信仰的な遺物と考えられます。

脇差 銘(桜花打込)英義作 (わきざし めい(おうかうちこみ)てるよしさく)

脇差の写真

  • 県指定重要文化財
  • 昭和38年9月4日

  長さ33.4センチメートルで、鍛えは板目、反りは0.4センチメートルで、刃紋は大乱れのものです。藤枝太郎英義(てるよし)の銘があります。

  英義(文政6年から明治9年)は佐波郡玉村町出身で、はじめ父のもとで修行し、その後、水心子正秀(すいしんしまさひで)の高弟、細川正義に学び、川越藩の刀鍛冶として幕末に活躍しました。川越藩に仕えた折には「当今江戸無類の上手(つかいて)」といわれたほどの刀工です。

下南室太々御神楽の養蚕の舞(しもなむろだいだいみかぐらのようさんのまい)

下南室太々御神楽の養蚕の舞の様子

  • 県指定重要無形民俗文化財
  • 平成24年3月23日指定

  下南室に所在する赤城神社に奉納される太々御神楽の20座ある愛嬌舞(あいきょうまい)のうちの1座です。

  農婦が蚕の祖神「絹笠大神」から教わった蚕の飼育方法を、若者に伝授してゆく過程を表現しています。養蚕の手順やしぐさに至るまでを丁寧に模倣しているため、養蚕農家が減少の一途をたどる中で、かつて群馬県の基幹産業であった「養蚕」習俗を、後世に伝える貴重な民俗芸能です。毎年4月の第1日曜日、下南室赤城神社の例祭に奉納されます。

小室敷石住居跡(こむろしきいしじゅうきょあと)

小室敷石住居跡の写真

  • 県指定史跡
  • 昭和42年11月24日指定

  小室字棗久保(なつめくぼ)に所在します。昭和42年(1967)に地元の少年が発見し、群馬大学尾崎喜佐雄教授によって調査されました。縄文時代後期初頭の住居跡で、ほぼ六角形の平面形をもつ本体部分に、南側に細長い出入口部が付いています。床面には平らな石が敷き詰められており、本体部分では石敷きの周りに柱穴があり、中央に石組みの炉(ろ)があります。本体部分は東西3メートル、南北3.35メートル、出入口部は幅0.7メートル、長さ2.3メートルを測ります。保存状態が良いため、縄文時代の文化・集落の研究上重要な資料となっており、今は現地に覆屋(おおいや)がかけられ公開されています。

渋川市道訓前遺跡出土品(しぶかわしどうくんまえいせきしゅつどひん)

渋川市道訓前遺跡出土品の写真

  • 県指定重要文化財
  • 平成19年3月27日指定

  国指定を除く3,116点が対象です。縄文時代中期中葉から後葉の土器と石器です。

  写真はJ-3号住居跡から出土した3本の脚を削りだした、非常に珍しい石皿です。

六地蔵(ろくじぞう)

雙玄寺の六地蔵の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和55年10月1日指定

  八崎(はっさき)の雙玄寺(そうげんじ)境内にある石造物で、高さ42.5センチメートル、幅34.5センチメートルの石に六体の地蔵が刻まれています。

  像は浮彫りの陽刻で、光背(こうはい)の円や錫杖(しゃくじょう)、宝珠(ほうじゅ)が見てとれます。台座に「妙小禅尼本願□□大禅門」、背面に「上野国勢多郡拝志庄(はやしのしょう)八崎村□□天文十三年(1544)甲辰四月廿一日」とあり、市内の拝志庄関係の資料の中では最も古い貴重なものです。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印塔の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和55年10月1日指定

  上小室の井上家の古い墓地には、五輪塔や板碑など中世石造物がまとまってあり、そのうちの1つです。

  高さ99.5センチメートルの宝篋印塔で、基礎が二間に区切られた関東形式です。この基礎の部分に、応永十五15年(1408)□月の年号が刻まれています。かつてここに寺があったともいわれます。

郷蔵(ごうぐら)

71郷蔵

  • 市指定重要文化財
  • 昭和55年10月1日指定、(平成16年3月31日再建)

  郷蔵とは、江戸時代の各村に作られた年貢米の一時的な保管倉庫で、のちには飢饉に備えた穀物の貯蔵倉としても利用されました。

  この郷蔵の確かな建造時代はわかりませんが、他村の例から考えると、この地域が前橋藩領だった時代、とくに酒井氏が藩主だった頃(寛延2年以前)ではないかと考えられています。間口3間半、奥行3間半で土壁造りのこじんまりとした建物です。もともと各村にあったはずですが、旧北橘村地区ではこの郷蔵のみが現存し、県内でも6例が残るだけの貴重な建造物です。平成16年3月31日に再建しました。(写真は再建前のもの)

板碑(いたび)

板碑の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和55年10月1日指定

  下箱田の橘山の山頂から発見された、緑泥片岩(りょくでいへんがん)のごく小形な板碑です。長さ30センチメートル、幅16センチメートル、厚さ2センチメートルを測ります。

  表面には線刻の蓮弁の上に釈迦種子(しゅじ)のバクという梵字が彫られ、蓮弁の下には「正和五年六月」(1316)という年号が刻まれています。

  北橘地区内の金石文の年号の中で一番古いものです。

蕨手刀(わらびてとう)

蕨手刀の写真

  • 市指定重要文化財
  • 昭和55年10月1日指定

  昭和の初め、真壁字下山田原の経塚古墳から出土したといわれ、真壁赤城神社に長く保管されていました。

  現存長44.5センチメートル、刃部残存長32.8センチメートル、刃幅3.94センチメートル、棟幅0.8センチメートルを測り、刀身から茎(なかご)まで一体作りの鉄製です。

  茎はゆるやかな弧を描き、茎尻(なかごじり)で丸まる蕨手形状をしており、茎尻には懸通孔(かけどおしあな)があくが、鳩目(はとめ)金具はありません。鍔(つば)は鉄製喰出鍔(はみだしつば)、鍔の先には、幅1.6センチメートルの銅製の鞘口(さやぐち)金具があり、鞘に付いていたと考えられる銅製の双脚足金具(そうきゃくあしかなぐ)が付属しています。刃部は反無しで、先端は欠損していますが、鋒両刃切刃造(きっさきもろはきりはづくり)と考えられます。全体に保存状態はとても良好です。

  県内の古墳では、前橋市白山古墳、伊勢崎市上原古墳・下触牛伏1号墳、藤岡市平地前A区K-1号墳、沼田市宇楚井古墳群などで出土しており、終末期古墳やその追葬事例が多いようです。この経塚古墳も当地の有力な終末期古墳だったと思われます。

文書(もんじょ)

74文書

  • 市指定重要文化財
  • 昭和55年10月1日指定

  木曽三社(きそさんしゃ)神社の神主は、もと南学院という修験(しゅげん)で、16世紀の末頃、神仏混合から完全に神社神道となり、伊勢神宮の支配下に入りました。天正19年(1591)伊勢の外宮(げくう)の御師(おし)である三日市太夫(みっかいちだゆう)次郎が木曽神社の神主に対し、神前で伊勢守(いせのかみ)と名乗って良いという許可を与えたもので、神道免状の一種です。

真壁向山遺跡出土緑釉陶器(まかべむこうやまいせきしゅつどりょくゆうとう)

真壁向山遺跡出土緑釉陶器の写真

別視点からの真壁向山遺跡出土緑釉陶器の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成11年8月27日指定

  真壁向山遺跡V地点の1号住居跡で出土した緑釉陶器です。1号住居跡は9世紀後半に営まれたと推定されます。上の写真は口径13.8センチメートル、器高4.0センチメートルの椀です。下の写真は口径14.5センチメートル、器高2.8センチメートルの輪花皿です。ともに釉薬は全面に刷毛塗りで、底部は回転ヘラ切りです。

  緑釉陶器とは、光沢のある緑色の釉薬(うわぐすり)が表面にかかった陶器です。釉薬に鉛など特別な原料を用い、釉薬が溶ける800度前後にうまく温度調節をしながら二度焼きすることが必要なため、平安時代では高度な技術を要する、高級な陶器でした。平安時代の緑釉陶器は、主に京都、愛知・岐阜県、滋賀、山口で作られ、都や全国各地へと運ばれました

  真壁向山遺跡の緑釉陶器も、愛知県で焼かれたものです。

八幡塚古墳出土直刀・刀装具(はちまんづかこふんしゅつどちょくとう・とうそうぐ)

八幡塚古墳出土直刀・刀装具の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成11年8月27日指定

  真壁字丸山にある八幡塚古墳から出土した副葬品です。倒卵形をした八窓の鉄製鐔(つば)で、直径8.8センチメートル短径7.2センチメートルを測ります。この鐔には「の」字状・U字状の銀象嵌(ぎんぞうがん)が施され、一緒に出土した鎺(はばき)金具にもU字状の銀象嵌が見られます。直刀は刃部先端が欠け、残存長69.2センチメートル、刃部幅3.2センチメートル、棟幅0.7センチメートル、茎長7.8センチメートルを測ります。

  八幡塚古墳は、山寄せの小円墳で、両袖型横穴式石室を主体部としています。玄室の平面形が方形に近く、両袖部に玄門をもち、石組みの前庭部をもつことから、7世紀後半代の築造と考えられます。

角谷戸薬師堂天井絵「間引き絵」(すみがいとやくしどうてんじょうえ「まびきえ」)

77角谷戸薬師堂天井絵「間引き絵」

  • 市指定文化財
  • 平成13年4月27日指定

  角谷戸薬師堂は元禄11年(1698)に建造されました。

  堂内の格天井(ごうてんじょう)は8列×9列で、72枚の絵や文字の板がはめ込こまれています。大部分は花鳥風月を描いたもので、年代ははっきりしませんが、汚損するたびに描き換えられてきたようです。中でも多いのが「武山」と署名されているものです。その武山の絵の中で1枚、間引絵(まびきえ)があります。

  間引きとは、生活が苦しく子育てができないため、口べらしのために我が子を殺してしまう悪習で、江戸時代の農村では多く見られました。作者の武山は明治初年の人で、江戸時代の間引絵馬の様式にならっていますが、石油ランプなど明治期を思わせるものも描かれています。天井絵にこのような間引きの場面を描くのは全国的にも珍しいものです。

分郷八崎遺跡出土深鉢形縄文土器(ぶんごうはっさきいせきしゅつどふかばちがたじょうもんどき)

分郷八崎遺跡出土深鉢形縄文土器の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成13年4月27日指定

  分郷八崎字八幡・十二ノ上に所在する旧石器・縄文時代前期・弥生時代後期から古墳時代前期・奈良から平安時代の複合集落遺跡です。昭和57年・昭和58年に関越自動車道の工事に先立ち、発掘調査が実施されました。

  指定対象はこのうち、8号住居跡出土の深鉢形土器です。高さ52.5センチメートルで、口縁部は4つの山をもつ波状口縁です。くびれた頸部の上の口辺部には、竹を半分に割ったような道具で大きな菱形を描いています。胴部は全体に縄文が施されています。この土器は有尾式(ありおしき)という、長野県や新潟県と関係の深い文様をもつ土器で、縄文時代前期中葉に位置づけられます。

田尻遺跡Y-1号住居出土弥生土器一式・鉄剣(たじりいせきY-1ごうじゅうきょしゅつどやよいどきいっしき・てっけん)

田尻遺跡Y−1号住居跡出土品(鉄剣)の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成13年4月27日指定

  田尻遺跡は、大正橋近くの県道拡幅工事で発見された弥生時代後期の集落遺跡です。2軒の竪穴住居が確認され、そのうちのY-1号住居跡から甕・壺・小形台付甕・鉢・有孔鉢・片口鉢などの弥生土器と小形の鉄剣が出土しました。

田尻遺跡Y−1号住居跡出土品(土器)の写真

  鉄剣(写真上)は全長16.6センチメートル、刃部長12.3センチメートル、刃部最大幅2.6センチメートル、厚さ0.41センチメートル、茎部長4.3センチメートル、茎部厚さ0.52センチメートルを測ります。茎尻部に目釘孔が1つあいています。弥生時代後期の鉄剣は県内でも少なく、市内では有馬遺跡の礫床墓(れきしょうぼ)で出土していますが、住居跡からは初めての例です。

木曽義長肖像(きそよしながしょうぞう)

木曽義長肖像の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成17年10月1日指定

  木曽三柱神社に保管されてきた江戸末期製作と推測される座像です。

  木曽義仲を遠祖とする27代木曽義長の像で、作者は信濃国善光寺の仏師である村上刑部(ぎょうぶ)の門弟とされています。座像には木曽義仲や木曽氏ゆかりの「笹竜胆(ささりんどう)」の紋所があり、正装帯刀の姿です。

  現在は北橘歴史資料館で展示しています。

箱田遺跡群上原遺跡出土深鉢形縄文土器(はこだいせきぐんうえはらいせきしゅつどふかばちがたじょうもんどき)

箱田遺跡群上原遺跡出土深鉢形縄文土器の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成17年10月1日指定

  上原遺跡は縄文時代前期と中期後半を主体とする集落遺跡です。

  このうち市指定となったのが、J-12号住居跡出土の諸磯(もろいそ)b式の深鉢形土器です。

  床面に横転して押しつぶされた状態で出土したもので、復元高は60センチメートルになります。頸部はくびれ、口縁は外傾し、口唇部には棒状突起2本からなる突起部と、刻みのある浮線文で飾った猪首の変化した山形突起とを交互に2単位ずつ配しています。

  突起部以外の口唇端部には波形の浮線を貼り付け、口縁部から底部に向けては、刻みのある2ミリメートルほどの細い浮線文を一定の間隔で横位に貼り付けています。全体の形は均整がとれ、熟練の技術がうかがえます。

玉泉院の懸仏(ぎょくせんいんのかけぼとけ)

玉泉院の懸仏の写真

  • 市指定重要文化財
  • 平成17年10月1日指定

  懸仏とは、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)にもとづき、神の依代(よりしろ)として作られた鏡面や円盤に、仏像を鋳出したり別に鋳造した仏像を取り付けたものです。

  下箱田の玉泉院にある懸仏は、室町時代初期のものと推定されています。仏身の高さ5.54センチメートル、台座の高さ1.24センチメートル、台座幅4.38センチメートルを測る非常に小さな金銅仏で、懸仏の中心仏です。宝冠、顔の表情など素朴ですが、稚拙さはなく、確かな技術を感じさせます。

下南室太々御神楽(しもなむろだいだいみかぐら)

115下南室太々御神楽

  • 市指定重要無形民俗文化財
  • 昭和45年6月27日指定

  下南室の赤城神社に奉納される神楽舞(かぐらまい)は、東京都御嶽神社(みたけじんじゃ)に伝わる神楽を受け継いだ江戸神楽系で、明治16年(1883)神官の金子常陸介(ひたちのすけ)真幸が赤城神社の神事芸能として取り入れたもので、「式舞(しきまい)」と「興舞(きょうまい)」から構成されます。とくに興舞の中の「鮹釣(たこつり)の舞」は興味深く、河童(かっぱ)が服装を脱ぎながらの踊りを式三番(しきさんば)といいます。平成18年からは4月の第1日曜日が例祭となっています。

箱田獅子舞(はこだししまい)

116箱田獅子舞

  • 市指定重要無形民俗文化財
  • 昭和45年6月27日指定

  木曽三柱神社に付属する一人立ちの獅子舞で、幕末から明治にかけて前橋市川原町から伝えられたといいます。

  紺の唐草模様の上衣とモンペハカマをつけ、ワラジをはき、腰太鼓を腰と肩につり、手にバチを持った3三頭の獅子が、太鼓を打って舞います。

  カンカチが先頭になり拍子をとります。カンカチ打ちは額に鉢巻きをしてシゴキの襷(たすき)をかけて、腰に御幣束(ごへいそく)をさし、背中に大きな紙の熨斗(のし)を負います。

  ほかに万燈が2個つくられます、悪魔払いの目的で行います。

  4月の第2日曜日に木曽三柱神社に奉納されます。

横井戸(よこいど)

横井戸の写真

  • 市指定重要有形民俗文化財
  • 平成17年10月1日指定

  明治初期に掘られた井戸です。固い岩盤を横にくりぬいて掘り、穴の中間付近は樋(とい)のように削ってあり、そこを水が流れるようにしてあります。普通は井戸と言えば縦坑(たてこう)ですが、湧水点を利用した横坑(よここう)の井戸です。小規模な当時の土木工事の技術を知ることができる貴重な資料です。奥行は103.6メートルあります。

石田伍助の供養塔(いしだごすけのくようとう)

石田伍助の供養塔の写真

  • 市指定重要有形民俗文化財
  • 平成17年10月1日指定

  全国的にも珍しい男性助産師がいたことを語る貴重な有形資料です。

  北橘地区には2名いたと記録にありますが、供養塔が残るのはここだけです。筆子塚(ふでこづか)と似た様式で、取り上げられた子どもたちが「産子(うぶこ)」となって建てています。台座には建立に関わった192名の名前が刻まれています。明治43年(1900)10月に建立されたものです。

東円山観音堂鰐口と石造物群(とうえんざんかんのんどうわにぐちとせきぞうぶつぐん)

東円山の石造物の写真

  • 市指定重要有形民俗文化財
  • 平成17年10月1日指定

観音堂境内に所在する石像仏群。閻魔像、脱衣婆像、庚申塔、馬頭牛頭観世音、念仏供養塔などがあります。近世から近代にかけての民間信仰を知ることのできる貴重な資料です。

東円山の鰐口の写真
  • 市指定重要有形民俗文化財
  • 平成17年10月1日指定

直径120センチメートルの青銅製の鰐口。明治時代の製作ですが、県内でも群を抜いた大きさです。蓮弁や銘文は鮮明で、ゆがみは見あたらず、高度な製作技術が

想定されます。

箱田城跡(はこだじょうあと)

箱田城跡の写真

  • 市指定史跡
  • 昭和47年12月7日指定

  大字下箱田・赤城山の末端台地の小丘「城山(じょうやま)」にある城跡で、南に橘山(たちばなやま)、北に真壁城山(まかべじょうやま)があり、八崎の寄居(よりい)などとともに、白井城につながる城だったと考えられます。

  真壁城とよく似た構造の単郭型(たんかくがた)の丘城ですが、真壁城よりも年代的に新しく、進んだ形式です。枡形様(ますがたよう)の虎口(こぐち)、櫓台(やぐらだい)、高土居(たかどい)、武者走り(むしゃばしり)などの遺構もよく残されています。

八幡塚古墳(はちまんづかこふん)

143八幡塚古墳

  • 市指定史跡
  • 平成8年10月1日指定

  真壁(まかべ)字丸山に所在する古墳時代終末期の円墳で、宅地造成により発見され、平成7年(1995)に発掘調査が行われました。

  直径10メートルほどの規模と推定される山寄せの小円墳です。埋葬施設は自然石乱石積(らんせきづみ)の両袖型(りょうそでがた)横穴式石室で、大きな平石1石個を立てて奥壁としています。石室開口部には石組みの前庭が付きます。

  石室内から直刀と刀装具、前庭部から土師器や須恵器の坏(つき)、長頸壺(ちょうけいつぼ)、大甕(おおがめ)などが出土しました。

  石室構造や出土遺物から7世紀後半の築造と考えられます。直刀の鍔、鎺(はばき)に銀象嵌(ぎんぞうがん)が認められます。刀装具および直刀は市指定重文となっています。

前中後遺跡II 弧状列石(まえなかごいせきII こじょうれっせき)

前中後遺跡II 弧状列石の写真

  • 市指定史跡
  • 平成9年9月5日指定

  前中後遺跡は八崎(はっさき)字前中後(まえなかご)・道流(どうりゅう)に所在します。

  平成4年(1992)にディサービスセンター建設に伴い発掘調査が実施されました。縄文時代後期の竪穴住居跡(柄鏡形住居や敷石住居を含む)、土坑、配石遺構が見つかっています。

  指定史跡となった配石遺構は、長さ12メートルの弧状を呈し、亜角礫(あかくれき)や棒状の円礫が並べられています。配石中央の東脇には注口土器が据えられていました。注口土器は後期前葉の堀之内II式で、注口部と釣り手部の一部が打ち欠かれているほかは完全です。土器の底部には編目状の圧痕があります。

大桑(おおくわ)

大桑の写真

  • 市指定天然記念物
  • 昭和55年10月1日指定

  上箱田にある石田家墓地の西北隅に自生しています。

  根元周り3.5メートルで、根本付近から3本に扇状に枝分かれし、それぞれ目通り周1.9メートル、1.7メートル、1.3メートルを測ります。枝張りは東西11メートル、南北15メートル、樹高は5メートルです。

  樹齢は300年と推定され、旧北橘地区村内唯一の大桑です。

木曽三社神社(きそさんしゃじんじゃ)

(注意)指定文化財ではありません

木曽三社神社の写真

  下箱田1番地に鎮座し、祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)・彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・宇気母智神(うけもちのかみ)です。

  元暦(げんりゃく)元年(1184)木曽義仲が粟津で敗死すると、その遺臣が、長野の延喜式内社である岡田・沙田(いさきだ)・阿礼(あれい)の三社を勧請して創建したと伝えられています。例祭は4月15日と10月15日です。

木曽三柱神社(きそみはしらじんじゃ)

(注意)指定文化財ではありません

木曽三社神社の写真

  箱田字宮廻(みやめぐり)に所在し、須佐之男尊(すさのおのみこと)・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)・保食神(うけもちのかみ)を祭神としています。江戸時代末に下箱田の木曽三社神社から分祀(ぶんし)されました。

  春の盛りは爛漫(らんまん)たる桜花に囲まれ、別名「花の明神」にふさわしいところです。また、神社付属の獅子舞は「箱田の獅子舞」として市指定重要無形民俗文化財となっています。

赤城神社(あかぎじんじゃ)

(注意)指定文化財ではありません

赤城神社の写真

  下南室(しもなむろ)字宮谷戸(みやがいと)に所在し、祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。大同2年(808)に宮城村三夜沢(みよさわ)にある県社赤城神社より勧請(かんじょう)されたと伝えられています。

  境内には本殿のほか、文久2年造立(ぞうりゅう)の上野十二社の石祠(せきし)、諏訪宮、稲荷宮、天神宮、神明宮などがあります。境内の東南に神楽殿があり4月4日の例祭に市指定重要無形文化財の「下南室太々御神楽(だいだいみかぐら)」が奉納されます。

雙玄寺(そうげんじ)

(注意)指定文化財ではありません

雙玄寺の写真

  白井の曹洞宗雙林寺(そうりんじ)の末寺であり、天正9年(1581)八崎の城主長尾左衛門尉(さえもんのじょう)憲景(のりかげ)公の創立により、白井雙林寺第10世操芝永旭禅師(そうしえいきょくぜんじ) を迎えて開山しました。

  往時は寺領30石を有し、当時の録所(ろくしょ)である雙林寺の近門後見として、代々の住職はみな録役を勤務する特権を有して、権威門声ともに高かったものです。

  天和(てんな)年間、山門の焼失に遭い、また、文政12年(1829)に堂宇(どうう)、伽藍(がらん)、記録類全焼の災いに遭いました。安政3年(1856)19世良順大和尚は、時の名主世話人であった田中清交と協力し現在の本堂を再建し、諸堂の修繕を加え、什器(じゅうき)法器等を補てんして復興をみるに至りました。

八崎千手観音(はっさきせんじゅかんのん)

  (注意)指定文化財ではありません

  分郷八崎(ぶんごうはっさき)東山の観音堂の本尊は、千手観世音菩薩(せんじゅかんぜおんぼさつ)です。菩薩像は、永承4年(1049)順永法師が安置したもので、行基僧正(ぎょうきそうじょう)作と伝えられています。西勢多三十三か所の霊場九番札所として知られ、長尾憲景(のりかげ)や上杉謙信の信仰もあったと伝えています。境内には、多くの石造信仰物があります。縁日は1月17日、8月17日です。

真壁城跡(まかべじょうあと)

  (注意)指定文化財ではありません

真壁城跡の写真

  坂東橋の東北、利根川東岸の崖の上の丘を城山といいます。山頂に本丸があり周囲に空壕(からぼり)をめぐらした単郭型(たんかくがた)の砦で、小形ながら戦国時代築城法の模式的なものと評価されます。この城を守っていた人物として記録されているのが神谷三河守(みかわのかみ)です。

八崎城跡(はっさきじょうあと)

  (注意)指定文化財ではありません

八崎城跡の写真

  分郷八崎(ぶんごうはっさき)の宿並みの南端、利根川の崖のふちにあって、本丸跡はすでに半分くらいは崩れさっています。その外側に壕(ほり)、さらに西曲輪(にしぐくるわ)、総曲輪があり、東川の外にさらに新曲輪があります。15世紀後半のころ、白井城にいた長尾氏の手によって築かれたものと思われます。

硯石(すずりいし)

  (注意)指定文化財ではありません

硯石の写真

  大字赤城山の赤城南麓広域農道沿いに、大きな石があります。

  この石には凹みが一つあって、いつも水がたまっているので硯石という名前があります。

  昔、親鸞上人(しんらんしょうにん)がここにきて、この水を硯に使ったという伝説のある石です。

セキショウの群落

  (注意)指定文化財ではありません

セキショウの群落の写真

  ショウブ科の常緑の多年草で、渓流のふちなどに生え、香気に富む植物です。

  下箱田の木曽三社神社境内の湧玉(わくたま)には、大きな群落があります。東西25メートル、南北90メートルの群落です。


掲載日 平成27年8月29日 更新日 令和6年3月15日
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